小谷野敦『なんとなく、リベラル』(飛鳥新社)を読む


 比較文学者・作家小谷野敦氏の『反米という病 なんとなく、リベラル』(飛鳥新社)を読んだ。昨日午前中近くの書店で購入、面白く、近年の読書ではひさしぶりに一気呵成に一日で読了。
 憲法九条と安保法制、社会的リスクと原発、対アメリカの姿勢と東アジア情勢、天皇制と身分制あるいは日本の文化・伝統などの問題をめぐって、事実認識と論理的整合性の観点から、現代メディアの思潮を批判検討している。反原発、反安保、反近代、反資本主義の言説は、多くは反米を軸に連結してきているので、表題も「反米という病」となっている。著者小谷野氏の立場は、近代主義(近代の限界ばかりを強調しない立場)・共和主義・反社会主義で、右翼でも左翼でもないが、旗幟は鮮明である。そのためということでもあるまいが、窺える学識の割には職業的に所を得ていないようである。印象深く、個人的に首肯できる記述を整理しておく。
◯もともと戦後日本の「反米」は、左翼ではかつてのソ連中共北朝鮮や、北ベトナムを善と見て、米国帝国主義が正しい社会主義国家を侵略、抑圧しようとしているというものであった。
 左翼には、今日でもなお、中共社会主義への幻想が残っている。いや、下手をすれば反米そのものが自己目的化して、ユダヤ陰謀論に結びつきかねない、パレスティナへの共感とイスラエルへの批判、ひいてはイスラム過激主義に肩入れしかねないものすらある。……(p.45)
◯反米右翼が恐ろしいのは、また大東亜戦争の過ちをくり返そうとしているところである。まあ実際に戦争はしないだろうが、外国の大学で日本の研究をしているのは「東アジア学科」であったりする。つまりそういう位置づけなのだ。確かに経済大国ではあるし、独自の文化も持っている。けれども、そのことをあまりに意識しすぎてはいけない。「日米は対等のパートナーたりうるか」などと考えるのは間違いである。仮に憲法九条を改正したって、日本が米国のように、アフガニスタンイラクに国軍を出勤させ、リーダーとして戦いぬくなどということができるはずがない。また、そんな国にならなくても、専守防衛でいいではないか。……(pp.114~115)
◯江藤(※淳)は、米国滞在中に世阿弥の『花伝書』を読み、涙を流したことで「日本回帰」したと書いているし、漱石の『こゝろ』を読んでやはり泣いたと書いている。これはごく普通のホームシックだろうが、実は江藤には、あまり日本文化に関する教養はなかった。そう言うと驚く人もいるだろうが、江藤は東京育ちでありながら、歌舞伎や落語に親しんだ様子がない。後になって、にわか勉強的に歌舞伎は観るようになるが、ひいきだったのは市川染五郎(現・松本幸四郎)で、これといって深い歌舞伎論は書けなかった。落語についても、座談会で語ったことはあるが、好きで聴いたということはなさそうだ。……(p.130)
◯反米保守は、実はものすごく西洋が好きなので、西洋人が天皇崇拝や日本人を褒めてくれると大喜びするのである。そこに、西洋人が認めようが認めまいがいいものはいい、という独立自尊の精神はない。……(p.137)
◯実際、民主主義が恐ろしい結果をもたらしたという現象は、ヒトラー以外にほとんどないので、ヒトラーの登場にしてからが、ヴェルサイユ条約で苛酷な賠償金を課せられたドイツ人の、連合国への怨恨がもたらした、いわば連合国側の政策の失敗である。しかもナチス党は選挙で圧勝したわけではない。日本の戦争は、民主主義がもたらしたものではなく、軍部の横やりがもたらしたものだ。……(p.186)
◯話を元へ戻すと、西部には哲学愛好癖があり、抽象的な議論を好む。しばしば、具体的な問題を「公共性」や「善」、その他多くの抽象語に還元して語る。ただしこれは、西部に限ったことではなく、西洋と日本とを問わず、多くの知識人が罹っている病である。明治以来、西洋の哲学や文学に頭をやられた挙句、抽象化できるのが偉いと思い込んでしまうのである。特に、学生運動をやったりした世代で顕著だが、それだけには限らない。……(p.194)
 西部邁氏について論じた第八章、西部氏が「英語が苦手だと自分で書いている」とし、「だから米国では言葉の面でも苦労したろうが、そのトラウマからか、文章中で過剰に英語を用いる」し、「怪しげな語源説もしばしば展開する」とあるところで、個人的に思い当たることがある。西部氏が、かつて「欲望のsaturation」という語句を好んで使っていたので、英語辞典の編集に責任ある立場で関わっている知己のO氏に訊いたところ、当時最新の『OX』によれば「saturation」は「飽和状態」の意味ではあくまでも化学用語で、比喩的使用例はないとの返答であった。さっそくこの件葉書で伝えてみたが、ご返事はなかった。むろん修辞として構わないにしても、あえて英語を使うこともあるまいと思えたのである。
 小谷野氏によれば、「談話で力を発揮するタイプ」の西部邁氏の著作には、「一冊の著書として、これが優れているというものはない気がする」が、「初期の西部を知るには、対談集『論士歴問』(プレジデント社・1984)がいいと思う」とのことである。あわてて書架からこの本を引っ張り出した。今あらためて対談相手が多彩であったことに驚いた。