三島由紀夫と北一輝

 松本健一氏の『三島由紀夫二・二六事件』(文春新書)は、二・二六事件が起こって(1936年)から69年目にあたる2005年11月に刊行されている。事件の年11歳の少年だった三島由紀夫と、事件の思想的指導者北一輝天皇観、そしてそれらを拒絶した昭和天皇の立場と決断について、「この三者の緊張関係は昭和史への大いなる影となって刻みこまれている」との観点から論述している。あらためて現代の問題を、戦前からの歴史的つながりで考えなければならないと実感させられる。
日本改造法案大綱』で戦後日本の政治体制を先取りしていた北一輝は、天皇を個人として崇拝する心情や態度はなく、革命のための「機関」として利用しようとした。三島由紀夫の場合は、蹶起した青年将校磯辺浅一陸軍大尉と「あい通じる」思いがあり、天皇に裏切られたとの怨嗟の声を、作品『英霊の聲』の帰神(かむがかり)した神主に語らせたのである。そして、戦争を終結させ、「人間宣言」をした天皇に対する、散華した特攻隊員の恨みの思いもそこに重ねている。
 つまりは、二・二六事件青年将校大東亜戦争で散華していった特攻隊員の霊がこの小説の物語の主である。かれらは天皇によって裏切られた。そのことは、昭和天皇が二・二六の蹶起軍を、「義軍」どころか、「反乱軍」とよんだ最初のひとであったことによって、明らかである。蹶起軍を「義軍」、もしくは「正義軍」とよんだのは、二・二六事件の思想的指導者とみなされ、死刑に処せられた北一輝そのひとだった。
 北一輝は、対米国開戦は、必ず対英米戦となり、そして対露支戦となることを洞察していてこれに反対したが、昭和天皇も、松本氏の資料研究によれば、昭和16年(1941年)9月の御前会議において、明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさはぐらむ」を読み上げて日米開戦には反対の「聖慮」を示したそうである。説得力がある。
「政治の総覧者」としての天皇ではなく、いわば「美の総覧者」としての天皇を復活させようとしたのが三島由紀夫天皇観であり、それは、三島が〈みやび〉と憧れた二・二六の青年将校と同様に昭和天皇の斥けるところとなった。青年将校らが頼みとした真崎甚三郎大将の子息真崎秀樹を、エリザベス女王との通訳官にしてにこやかに並んでみせた昭和天皇は、三島由紀夫自刃については終生沈黙つまり無視の態度であったと伝えられる。
……その畏るべき天皇のまえに、三島由紀夫は敗れ去った。いや三島は、その政治的なる天皇に敗れることによって、みずからの〈美しい天皇〉とともに亡命してゆくさまを際立たせたのである。それは、橋川文三が「美と政治の論理」で指摘した、文化概念すなわち〈美しい天皇〉と政治概念としての天皇との対決であった、といえようか。
 しかし昭和天皇は、その〈美しい天皇〉像を平然と斥けたのである。……
 なおあくまでも伝説の域を出ないことであろうが、大本教出口王仁三郎三島由紀夫の家系が宮家の血縁でつながっているかもしれないという話には、大いに興味が湧いた。王仁三郎の母ヨネが京都伏見の料理屋で奉公しているときに、仁孝天皇の甥にあたる有栖川宮織仁(たるひと)親王の子を宿し、それが王仁三郎なのだという。この織仁(たるひと)親王の弟威仁(たけひと親王の子をひそかに宿したとされるのが、水戸支藩の藩主の長女の生まれの永井夏子のちの平岡夏子であった。その子が、平岡梓すなわち平岡公威(きみたけ)=三島由紀夫の父というのである。面白い。
 http://www.geocities.jp/osaka_multitude_p/gakushuu_bunken/kitaikki/nihonkaizouhouantaikou.html
      (「『日本改造法案大綱』ひらがな版」)