安部公房没後20年


 安部公房作の『友達』の舞台は、2008(平成20)年に観ている。かつてHP掲載の記事を再録しておこう。
(「世田谷パブリックシアター/シアタートラム」より拝借)http://setagaya-pt.jp/theater_info/2008/11/post_127.html
……本日(11/22)の「東京新聞」朝刊紙上に、井芹純子さんという大学生の方の面白い文章が掲載されていた。一般投書とは別扱いの「サタデー発言」という欄である。ある場合の接客のマニュアルらしき心得について疑義を呈している。多くの心得では、常に相手を見つめながら話すという〈正しい姿勢〉が求められるが、それが使命とされれば、〈正しくなりすぎ〉たと思うこともある。

『これは、本来の接客から脱線しているのではないか、と思うのである。安部公房が「見ることには愛があるが、見られることには悪がある」と言っていたように、凝視し続けられるのは誰しも好みはしない。人が好みもしないことをし続けるということは、自分はよかれと思っているのに、皮肉にも逆効果に作用してしまう点で、店の人にも気の毒である。』

 さて20日(木)は、この安部公房の『友達』の舞台(マチネー公演)を東京世田谷シアタートラムにて観劇。演出はいまをときめく岡田利規で、出演が小林十市麿赤兒若松武史木野花今井朋彦、剱持たまき、加藤啓、ともさと衣柄本時生、呉キリコほかの、すき焼き・あんこう・牡蠣・ふぐ鍋といった趣の、異色かつ味のある組み合わせであった。
 ある晩突然アパートの男の部屋に、祖父を含めた9人家族が押し掛け〈友達〉として泊まってしまうお話。彼らの〈愛〉と〈友情〉と〈可愛らしさ〉によって、男は、けっきょく死んでしまうブラックユーモア劇。登場人物のひとりひとりが観客を素の顔の視線で眺め回し、また、各々の出番のタイミングで誰かの視線を意識するような素振りで舞台正面に躍り出る。この家族とは、ひとをまなざす「世間」というものだろうが、その「世間」もどこからのまなざしを仮想して成り立っているかのようだ。まなざしに晒され「まなざされるまなざし」を交わしあう人間の不安と怯えが漂ったかといえば、こちらは、少し眠気を催してしまった。2時間を越え幕間なしとのことで、事前になんと2回もトイレに入ったことをしきりに反省する、客席での〈自分的〉時間をもってしまっていたのだ。
 ともあれ、「天井桟敷」の寺山修司風とも、「ク・ナウカ」の宮城聰風とも異なる手法で、非日常ー日常、虚構ー現実の境界を揺さぶろうとする試みは面白い。……(2008年11/22記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、ルピナス(Lupinus:昇り藤)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆