オペラ『サロメ』鑑賞

 昨日10/19(水)は、東京初台の新国立劇場オペラパレスにて、オペラ『サロメ』を鑑賞した。演劇作品の『オイディプス王』、『メディア』、『かもめ』、『サド侯爵夫人』とともに、オペラ(演劇も)『サロメ』が東京周辺で上演されると、割合つきあっている。


 今回の『サロメ』は、亡きアウグスト・エファーディングの演出を、三浦安浩が再演出したもので、正面奥にヘロデ王の宮殿があり、その前庭が中心の舞台。中央に大井戸を塞ぐ丸い蓋が印象的である。はじめて観た、「ウィーン国立歌劇場」(1980年10/2NHKホールにて。サロメ=レオニー・リザネック)の舞台では、こんなに巨大な井戸ではなかった。聖なる世界と、欲望渦巻く俗の世界とを隔てる仕掛けの象徴性が際立っている。
 沈鬱な表情で登場するサロメは、喪服のような黒い衣装であったが、ヘロデ王の懇願を受け入れて「七つのヴェールの踊り」を踊る時には、深紅のダンス衣装に着替えている。ヨハナーンへの狂おしいほどの恋の欲情は、深い孤独に促されているだということが視覚的によく理解できる。サロメのエリカ・ズンネガルドのソプラノはよく通り、妖艶なダンスに乱れなく、七つ目のヴェールをとって臆せず露にした張りのあるバストも、大王の権力を一瞬黙らせるには十分美しかった。「19世紀後半、文学と詩のジャンルのアイデンティティが問われた時代に、サロメのヴェールの向こう側に文学者たちは裸体だけではなく、究極的に言語には還元しえない文学の自立性を見ようとした。21世紀の今、私たちはサロメのダンスの向こうに一体、何を見ようとするのだろうか」(大鐘敦子関東学院大学教授・パンフレット)とのことであるが、「裸体そのものへ!」と視線が釘付けになって、視線は「その向こう」には及ぶことはなかったのである。管弦楽は、「東京フィルハーモニー交響楽団」、指揮はラルフ・ヴァイケルトであった。
 カルロス・サウラ演出で、「アイーダ・ゴメス スペイン舞踊団」がフラメンコ・バレエを踊った舞台『サロメ』の鑑賞記(2004年3月)を再録しておきたい。

◆2/28(土)の夜、「アイーダ・ゴメス スペイン舞踊団」による舞踊劇「サロメ」を観た(渋谷東急文化村 オーチャードホール)。「サロメ」の前の第一部のフラメンコ舞踊「スペイン組曲」「アルマ・デ・オンブレ(男の魂)」「メンサへ(メッセージ)」「ソシエゴ(くつろぎ)」「レベダード(軽さ)」そしてアイーダのソロダンス「シレンシオ・ラスガド(引き裂かれた静寂)」もそれぞれ力と美しさが感じられ、すでに興奮させられてしまった。さて「サロメ」は、カルロス・サウラの演出である。
 アイーダ・ゴメスは多彩なダンステクニックを駆使して、サロメの「血まみれの愛」を表現したかったようだ。ダンスの技術的多彩性については、まったくわからなかったが、表現の一連の動きとして、その内側から迸ってくる情熱と狂気は皮膚感覚的に読みとれた。観終わった後の陶酔と充実はたとえようもなかった。ただ舞台背面の壁に半月の月が描かれ、後で満月となるが、この辺はどうなのかと思った。「この日はヘロデ王誕生の祝宴の宵、一説には八月二十九日、満月の夏の月である」(『サロメの変容』新書館)と、井村君江氏が述べている。このドラマでは月は決定的に重要な仕掛けのはずである。

……月は人々の心を捉え、月の光に憑かれた人々は、この世の次元とは異なる論理に導かれた行為をする。ヨハネを首にして口づけをさせたサロメも、王女に恋い焦れる余り己の身に剣を突き立てたシリア人も、愛していた筈のサロメを楯の下に圧し潰させたヘロデ大王も、あるいはこの世ならぬ月の光が頭いっぱいに射し込んで、ルナティックな情感に捉えられていたのかも知れぬ。人物たちは月に向って独白(モノローグ)を語っていた。(同書)
 実物のアイーダ・ゴメスは、「小さな顔」の「ほっそりした肩や指を動かす」(東急文化村発行のパンフレットによる)女性らしいが、舞台では、「七つのヴェールの踊り」を踊る前から、巨大なバストが見え隠れして、月が映し出す処女性とは少し遠い印象は否めなかった。
……サロメの劇において、月は中心の存在であった。月は神秘のベールで地上を被い、人々に仮面を付け、その光で人々の脳裡を洗う。月は鏡のように人々の心を映し出し、支配者のように人々の言葉に耳を傾け、傀儡師のように人々の行為の糸を操り、預言者のように人々の心の変化を色に現す。そして、月はサロメを女神にし、成熟した女にし、愛の完成を祝福する。(同書。写真は、パンフレットから。写真撮影は、山澤伸。席は、オーチャードホール2階L7列2番)(2004年3/1記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のベゴニア(奥)&メラニー(Melanie:ネメシアのピンク系品種)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆