フランスの競馬場

 この秋10/2(日)に、フランスのロンシャン競馬場で催される「凱旋門賞」レースに、日本の競走馬が7頭も出走の登録をしているとのことである。現地で調整中だったヴィクトワールピサが、惜しくも断念することになったそうである。それにしても、「ジャパンカップ」創設のころは、外国人騎手から「日本の馬は、馬というよりは鹿が走っているようだ」などと揶揄されていたことから思うと、隔世の感がある。
 ロンシャン競馬場といえば、ナポレオン3世の治世下で造営されたものだ。このナポレオン3世について、鹿島茂氏の『怪帝ナポレオンⅢ世』(講談社)が断然面白い。

 構想から完成までに13年を費やした、本文466頁の大作である。添えられている豊富な図版も刺激的で、大いに興味をそそられる。
ナポレオン三世はバカでも間抜けでもない。これはすでにあきらかである。またマルクスのいうようなゴロツキでもないし、左翼教条主義者の主張するような軍事独裁ファシストでもない」(プロローグ)という立場から、ナポレオン3世についておびただしい文献を渉猟して、その歴史的功績を史実に即して公平に捉えようとしたものである。
 伝えらるような漁色家としての側面も手抜かりなく描いていて、面白い。美肌で肩や〈豊乳〉を惜し気もなく露出するタイプの女性にはめっぽう弱かったようだ。軍事面での才能に欠けるが、陰謀家で、またたいへんな勉強家でもあったことがわかる。1840年のブローニュの蜂起で失敗して、パリの北アムの町の要塞に幽閉されたとき、後に回顧して《我がアム大学》と呼んだほど学究の生活を送ったという。44年には、「労働者階級は、何ものも所有していない。なんとしてもこれを持てるものにかえなければならない」と宣言した『貧困の根絶』を書き上げている。科学と金融・産業の連動によって経済を盛んにし、貧困者への福祉を進めるというサン=シモン主義の考え方を終生失わなかった人物であった。この要塞から石工バンゲと入れ替わって脱出することに成功したことから、(後の)ナポレオン3世は、バダンゲというあだ名がつけられたそうである。この脱出のエピソードのところは、読んでいて実に愉しかった。
 大統領となり、そして1852年12月皇帝となって、彼は、サン=シモン主義にもとづいた福祉政策を次々実施し、いっぽうで、セーヌ県知事に抜擢したオスマンによって、念願のパリの大改造を断行させた。世界に冠たる美しい都市パリはかくしてできあがったのである。
『パリ市では、オスマン以前から、道路の幅員と対応する建物の高さ規制の法律があったが、オスマンはたんに高さだけでなく、ファサード(=建物の正面)についても、街区の建設者がバルコニーや軒蛇腹などの線を揃えるように行政通達を発して、統一感を生み出すように指導した。つまり、行政指導に美学的な観点を盛り込むことで、均整の取れた美しい町並みを作り出すことに腐心したのである。
 オスマンは一八七〇年に失脚し、その壮大な改造計画は後退を余儀なくされたが、パリ市当局は、オスマンのこの美学的見地からの規制という思想はしっかりと受け継ぎ、パリを無秩序な再開発から救うことになるのである。』
 競馬ファンには馴染みの「ロンシャン競馬場」も、競馬ファンであったナポレオン3世の全面的賛成により、国庫から補助金が出されて、「ロンシャンの散策」で知られたロンシャン平原の上半分にブローニュの森が延長され、下半分に1875年に建設されたものだそうである。なるほど、今後「凱旋門賞」レースの映像を観たときには、ナポレオン3世とオスマンの名を思い起こすことにしたい。
 1870年プロシャとの戦争で敗れて、ナポレオン3世はセダンで虜われの身となり、ついに帝政は終焉を迎えてしまう。それにしても、戦場での指揮系統を混乱させて敗戦の責任が大いにあった皇妃ウージェニーは、1872年亡命先のイギリスのカムデン・プレイスでナポレオン3世の死を看取ってから、1920年スペインのマドリードで94歳で亡くなるまで、48年間も生きていたのである。女性は強い!

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町のネムノキ(合歓の木)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆