「ポーズ」としての〈怒り〉もあるか?

 そのオペラ作品『イポリートとアリシー』の初演が昔実現(2003年11/8・演奏会形式)している(こちらは、残念ながら聴いていない)、18世紀フランスの音楽家ジャン=フィリップ・ラモーの甥ジャン=フランソワ・ラモーをモデルとした、ディドロの『ラモーの甥』では、パリのカフェで、聞き役の〈私〉を相手に、「ラモーの甥」と呼ばれる〈彼〉が、まるで西部邁氏と渉り合ったかつての宮台真司氏といった感じで「道徳論」など論じまくるが、人間の「ポーズ」について面白いことも語っている。
彼…貧乏な人間は普通の人のような歩き方はしません。彼は飛び、這い、のたくり、足を引きずって歩きます。彼はいろんなポーズをとったり、してみせたりすることで一生をすごすんです。
私…ポーズって何なんだね?
彼…それはノヴェールのところへ行って聞いてごらんなさい。上流社会は彼の芸術でもまねられないほどいろんなポーズを提供していますよ。
私…だが、君もやっぱり、君の表現か、またはモンテーニュの表現を用いるなら、「水星の周転円の上にとまって、」人類の色々なパントマイムを眺めているんじゃないかね。
彼…いや、いや、そうじゃないですよ。わしは大変重いですから、そんなに高くは上れません。霧の国のことは鶴たちにまかせておきまさ。わしは、ごく月並なやり方でゆくとします。あたりを見まわして、自分のポーズを採用するか、さもなけりゃ、ほかの連中がポーズをとるのを見て楽しみます。(岩波文庫『ラモーの甥』本田喜代治・平岡昇訳)